※「近況」で好き勝手やってたパラレル妄想文です。
 夏侯惇→「中原運送」系列の花屋の店長 夏侯淵→惇のお手伝い 曹操→一代で大会社を築いた「中原運送」社長  大喬→惇の店で働くバイト
 張遼→「赤兎運輸」の社員 董卓→「赤兎運輸」社長(故人) 呂布→「赤兎運輸」現社長


 その男は大体、夏侯惇がいるその花屋に、閉店間際、駆け足でやって来る。
 夏侯惇はその男のことがすこぶる気に入らなかった。なぜなら彼は、早足で歩く姿はそれだけでどこか優雅であり、支払いを済ませるときのやり取りだけでどこか上品な物腰を感じられる、背の高い落ち着いた青年であったから。
 とはいえ夏侯惇には、その男のどこがいけないのかと問われたとして、「ここが」と具体的に指し示すことはできないのだった。しかしとにかく彼はその男のことがいけ好かなかった。
 そもそも―――と夏侯惇はちらりと視線を前方に投げかけた。そこには黒のストライプのすらりとしたスーツに身を包み、スチールブルーのアタッシュケースを提げた例の男が、商品の支払いを待って立っていた。
 何だあの髭は。この男は馬鹿か?
 夏侯惇は、初めてその男のことを眼にしたときからもう何度思ったかしれない文句を心のうちで呟いた。夏侯惇は常々、その客の男のクレバーなイメージにはまったく沿っていない、不可思議に上を向いて生えている――もしくはその男自身がわざとそうしている――髭が異様に目に付いて仕方がなかったのである。
「すまないが、少し急いでもらえないだろうか」
 その男は腕にしている、いかにも高級そうな時計のピカピカ光る文字盤にちらりと一度だけ目をやって、夏侯惇にはとても急いでいるとは思えない、冷静な声色でそう言った。
 だったらもっと早く店に来い、このクソッタレ。てめぇの来る日はおかげで閉店時間が15分も・・・
「・・・どうもすいません、お客さん。もう閉める間際だったので、道具を片付けてしまって。」
「・・・・・」
 嫌味の一つや二つ、出ようというものだ。というか、夏侯惇にしてみれば、これでこの迷惑な客の気分を害して、彼が二度とこの店にこなくなったとして、困るどころかむしろそんな事態を歓迎したかった。彼一人来なくなったとして、大差ない。
 言いたい放題だが、この場合、何せこの店の店長は自分なのだ。
「出来合いの花束ならすぐにお渡しできましたけどね。お客さんはいつも新しくご注文くださいますから一から作らないといけませんので。」
 相当嫌味に聞こえただろうが、そのつもりで言ったのだから当然だ。普段なら、客に向かってこんなことは間違っても言わない夏侯惇だが、この際徹底的にこの客に嫌われて、ふざけているとしか思えないあの髭を見るのは今夜で最後にしたいとさえ思っていた。
「・・・・・」
 男はだまって、じっと夏侯惇の顔を見ていた。客に向かってあまりと言えばあまりの夏侯惇の態度に、言葉を失くしていたとしても不思議はない。
「・・・できました。31500円、いただきます。」
 夏侯惇はことさら無愛想に、淡々とそう言ってレジを打った。
 男が買うのはいつも同じで、それは一種類の花を束ねた豪勢な花束だった。男は決まって、この時間まで売れ残ったその花をバケツごと全部買い、一つの花束にするように注文するのである。
 そして男はいつもと同じように、胸ポケットからいやでもそれとわかるような、上等な黒の革財布を取り出すと、そこからさらに一万円のピン札を取り出して夏侯惇に寄越した。
 夏侯惇はいつもと同じように、その一連の動作を、ひとりでに歪みそうになる顔を努めて無表情に保ちながら、カウンターの中から見ていた。
「8500円のお返しです。ありがとうございました。」
 もう二度と来るなよ、と言外に付け足して、夏侯惇は儀礼のようにそう口にして軽く頭を下げると、さっさとレジに向き直って男のことは瞬時に意識から追い出そうとした。
 なので夏侯惇は、その男がそれから、怒ってさっさと店を出たのか、言葉を失くして立ち尽くしていたのか、それとも他に商品を見たり、何か用事があったりして、しばらくそこに佇んでいたのか、まったく知りもしなかった。

「・・・ありがとうございました。」
 何でだ。何で来るんだ。
 残念なことに今日もやって来たあの男の去っていく後姿を眺めながら、夏侯惇は薄ら寒い不気味さを感じていた。
 普通のお客なら、買い物に行った店で店員にあんな態度を取られたら、怒り狂ってもう二度と来ないか、口うるさいクレームを寄越してきてもいいくらいだ。
 それをあの男は平然と、3日前など何事もなかったかのように、いつもの調子で花束を買いに来た。
 夏侯惇はあの男が嫌いうんぬんよりも、今や空恐ろしくなっていた。
「何。あのお客、また来たの。」
「うん。」
 たまたま今夜シフトが遅番だった夏侯淵がカウンターの奥の倉庫から包装紙の補充をしにやってきて言った。夏侯淵も何度かあの客の姿を見たことがあるのだった。
「変な客。ていうか、変な髭の客。」
「うん。」
 夏侯惇は知らず知らず歪んでくる自分の顔を今や何の遠慮もなく歪んだままにして、もうどこかへ行ってしまって見えなくなった、あの男の去った方向を睨みつけて頷いた。
「また白いバラばっか買って行ったの。」
「うん。」
 夏侯淵が苦笑いのような表情で訊ねると、夏侯惇は心底忌々しそうに頷いた。忌々しそうというか、実際忌々しいのだったが。
「寒い。」
「え、あ、ドア閉めてこよっか、惇兄。」
 夏侯惇の地の底から響くようなおどろおどろしい声色を聞いて、夏侯淵は慌ててカウンターを出て行こうとした。
「違う。」
 それを、夏侯淵のしているエプロンの結び目を引っつかんで止める。夏侯惇は再びおどろおどろしい声で呟いた。
「あの野郎の買っていく白いバラがサムいっつってんだ、俺は。」
「えっ。」
 寒すぎるだろ、と夏侯惇は今や歪みに歪みきった不機嫌そのものの顔をしてぼそぼそと言った。
「勘違いもいいとこだ。寒すぎるんだよ、あのセンス。どんな女に贈るんだか知らんが、あんな男からこう何度も何度もあんな花束を贈られて喜ぶような女はろくな女じゃない、絶対に馬鹿だ。」
「べ、別にいつも同じ人にあげてるってわけじゃないかもしれないじゃん。もしかしたらあのお客が実はすごいタラシで・・・」
「それならそれであの男は最低でしかも馬鹿だ。金を使うしか能のない救いようのない馬鹿だ。」
 ちっ、と心の底から軽蔑するように、夏侯惇は舌打ちした。まるであの客が本当に、「最低で馬鹿で金を使うしか能が無くて救いようのない馬鹿」であるかのような口ぶりである。否、夏侯惇の中ではすでにあの客は、「最低で馬鹿で金を使うしか能が無くて救いようのない馬鹿」なのだった。
「・・・惇兄・・・」
 夏侯淵はもはや止めようもない兄の暴言にしどろもどろになるばかりだった。彼の兄は滅多に人を嫌いになったりしないはずなのだが、一度嫌いになるととことんまで嫌いになるという困った性質でもあったので、夏侯淵は例のお客の弁護は諦めることにした。
 「実はすごいタラシ」というのがあのお客にとって弁護になり得るとして。
「じゃぁ、次またあのお客が来たときに俺が入ってるときはさ、俺が応対するし。俺がいないときは他のバイトにやらせなよ、惇兄。女の子たちだったら喜んでやってくれるんじゃねぇの。」
「・・・そうする。」
 夏侯淵が妥協案を提示するとようやく、夏侯惇は閉店業務に手をつけ始めた。
 夏侯淵はそれを見てそっとため息をついた。夏侯淵はこの兄のことを深く尊敬していたし、心から好きだったが、思い込みの激しいその性質には密かに、いつも手を焼かされているのだった。

「いらっしゃいませ。」
 夏侯惇はしぶしぶ頭を下げた。
 また来たのか。何でだ。何で来るんだ、ちくしょう。
 忌々しくて顔が歪む。思わず手に力がこもって、持っていた赤いチューリップの茎をへし折ってしまい、慌てて手のひらを開いたが後の祭りだった。
 しかし今日はアルバイトの女の子という、頼れる味方がいる。彼女に応対してもらえば何ら問題はなし、実際この客が間を空けず買っていく白バラの花束は相当な値段なので、夏侯惇にとって彼は、自分が応対するのでなければ、上得意と言ってもいい。
「いらっしゃいませ。」
 花屋の店員になるべくしてなったというような、いかにも清純そうなその女の子は、大喬といった。彼女は見上げるような体格の店長とタメを張るほど体格のいいその客に臆することもなく、カウンターの中から微笑んだ。まさに花の様な微笑である。
「どういったものをお探しですか?」
 愛想よくわずかに小首をかしげて訊ねた彼女を見下ろし、その男は無表情のまま答えた。
「今残っている白いバラを全部花束にしてくれ。」
「はい。かしこまりました。」
 彼女は手際よくバケツの中から白バラを取り出して花束を作り始めた。
 夏侯惇はそのやりとりを耳だけで聞いて安心していた。
 最初からこうすればよかったんだ、別に俺が応対しなくたって。
 心に余裕が出来たのか、夏侯惇はチューリップの手入れをやめて立ち上がった。そしてふと目を上げたその方向に例の客がいて、その男とばち、と音が聞こえそうなほど完全に目が合ったことにひどく驚くことになった。
「・・・お・・・お買い上げ・・・ありがとうございます。」
 夏侯惇はどぎまぎしながら呟くように言って、そそくさと奥の倉庫に引っ込んだ。
 あの男の視線は心臓に悪い。
 未だ高く打つ心臓の鼓動を聞きつつ、何か不穏なものをあの客から感じるような気がしてならず、夏侯惇は荒い息を二三度吐いた。
「ありがとうございましたー。」
 向こうの方から、大喬のよく通る高い声が聞こえる。男が帰るのを倉庫の入り口からそっと覗き込んで確認すると、夏侯惇は今度は安堵のため息を吐くのだった。



「店長。」
「んー?」
 倉庫で在庫点検をしていた夏侯惇は、大喬がカウンターからこちらを覗き込んで手招きをしながら、困った顔で「ちょっといいですか。」と言うので、リボンの入った箱から顔を上げた。
「昨日来たあの白バラの花束買っていったお客さんなんですけど。」
「・・・あー、あぁ。それが何だ。」
 嫌な話題だ、と夏侯惇は気分ががくりと落ち込むのを感じた。せっかく今まできれいに忘れていたというのに、まったく余計なことを言い出すものだ。そんなことは理不尽だとはわかっていながら、夏侯惇は大喬に苛立ちを覚えた。
「あのお客さんって、いっつもあればっかり買っていくじゃないですか。」
「あぁ、そーだな。」
 ピン札の万券でな、と夏侯惇は嫌味ったらしく付け足した。大喬はそれを見て、どうやらうちの店長はあのお客が嫌いらしい、とすぐにピンと来て苦笑を浮かべる。
「でも白いバラって、えっと・・・その、あんまり普通じゃないですよね、贈り物として。」
「普通じゃないのはあの客の髭もだけどな。まぁ白より赤のが普通だな。」
「まぁ、店長ったら。」
 お客のことを悪く言うのを聞いて笑ってはあまり褒められないと思っているのか、大喬は控えめに笑ったが、つい昨日の晩見たばかりのあの髭を思い出すと、余計に笑えるようだ。
「店長は、白バラの花言葉、ご存知ですか。」
 大喬は心底楽しそうに夏侯惇の顔を覗き込んで訊ねた。夏侯惇は怪訝な顔をして首を振る。
「大喬、俺は確かに花屋だが、しかしよく考えてみてくれ。俺はもう30一歩手前のおっさんだろう。いくら花屋でも、そんなおっさんが花言葉なんか一つ一つ知ってたら実際気持ち悪くて客が寄りつかんと思わんか。」
「うーん・・・そうですね、確かに。」
「・・・・・・だろ。」
 夏侯惇は大喬が素直に頷いて、心の底から確かにそうだ、店長の言うとおりであるなぁと納得した様子でいるのに、自分でも思いの外大きな、とてつもないショックを受けた。大喬のことだからきっと、そんなことはない、と言ってくれるに違いないと心のどこかで期待していたのかもしれないが、その当ては見事に外れてしまった。
「とにかく、俺はそんなキザったらしい花の花言葉なんかしらん。」
 夏侯惇は半ばふて腐れたように、つっけんどんにそう言った。大喬はにこにこと笑っている。
「私、あのお客さんがあんまりあの花ばかり花束にしろって言うものですから調べたんです・・・」
「へぇ。それで何て?」
 夏侯惇はもはや白バラと聞けばあの男のいけ好かない顔が頭に浮かんで、イライラしながら訊ねる。
「尊敬っていう意味と、「私はあなたにふさわしい」っていう意味らしいです。あのお客さん、すごい自信家なんですね。」
「・・・その意味をあの客が知ってればな。」
 大喬がのん気にそう言うのを聞いて、夏侯惇は忌々しげに顔を歪め、肩を竦めてみせた。
 もしあの男が白バラの花言葉を知っているとしたら、確かにあの男には似合いの花かもしれない。あのすかした男から、馬鹿な女への贈り物としては最適だ。贈られた女は、きっとあの「格好だけは」何とか見られる―――ただし髭は除く―――男から、「私はあなたにふさわしい」という言葉を受け取って有頂天になるのだろう。その女に、白バラの花言葉を調べるほどの教養があればの話だが。
 夏侯惇にしてみれば虫唾の走るフレーズである。あの男はやはりはじめの見込みどおり、「最低で馬鹿で金を使うしか能が無くて救いようのない馬鹿」であるのに違いなかった。
 そしてもしも、あの男が花言葉を知らずにその花を贈っているとしたら、それはそれで間抜けな話である。勘違いした頭のおかしい女に追い掛け回されるのがおちだろう。
「やっぱり俺の思ったとおりだったな。」
 夏侯惇はどこか得意げになって、薄笑いを浮かべた。別段、誇るようなことは何もなかったが。
「何がですか?」
 大喬が不思議そうに訊ねると、夏侯惇は倉庫に戻りながら鼻で笑って言った。
「あの客が大馬鹿ってことがだよ。」
「・・・」
 大喬は何も言わずちょっと困った顔をして、この人はこんなで、今までどうしてこの花屋の店長でやってきたんだろうと不思議に思うのだった。

「お客さん。」
「・・・は?」
 そのお客は、いつもの様子からはあまり想像できないような間抜けた返事をしてきた。それを見た夏侯惇は、意地の悪い笑みを浮かべた。
 今日はどうやら厄日らしかった。バイトは休みだし、夏侯淵は急な配達で出て行ってしまった。そろそろ店頭の苗木でもしまおうかというときに、不意に声をかけられて振り向くとそこに立っていたのは、あの不可解な髭の男だった。
 夏侯惇はしぶしぶ自らカウンターに入ったが、いつものように花束を作る間にふと、いつか大喬が言った白バラの花言葉を思い出した。
「花を贈るんなら、花言葉くらいは調べておいた方がいいですよ。」
「・・・あぁ。」
 何とも気のない返事だった。男の様子はまるで、心ここにあらずといった風で、それは恐らく夏侯惇の客を前にしてはあんまりな態度のせいであろうことは、容易に想像がついた。
「いらん恥をかくこともありますから。」
「・・・あぁ。」
 嫌味に聞こえるように言ったつもりだったが、この男はまったく打てども打てども響かない。
 夏侯惇は、自分が相手をからかうつもりが、何だかだんだん自分がからかわれているような気になってきて、いらいらし始めた。
「・・・ちなみにこの花の花言葉は「私はあなたにふさわしい」という意味です。」
「・・・」
 男は表情をぴくりともさせず、夏侯惇の顔を見た。
「尊敬という意味もありますがね。」
「・・・なるほど。」
 何か思うところでもあるのか、男は短くそう言うと、夏侯惇の顔から視線を外して、店の壁をじっと見つめていた。
 夏侯惇は口をつぐんだまま微動だにしない男の様子を見て、内心でほくそ笑んだ。
「すまない。」
「・・・は?」
 もうすぐ花束が出来上がるというころになって、男がおもむろに口を開いた。夏侯惇が顔を上げると、やはり何の表情も表れていない男の顔がそこにあった。
「悪いがその花束、二つに分けてくれないか。片方の花束はバラの量を少し大目にして。」
「・・・」
 夏侯惇は、思わず怒鳴りつけそうになった自分を何とか抑えて、一言、抑えた声で「わかりました。」とだけ言った。
 夏侯惇が手際よく、半ばやけくそになって花束を作っている間、男は今度はじっとその様子を見ているようだった。
「はい、できましたよ。」
 夏侯惇は、もはやどうでもいいような気持ちになって、二つの花束をカウンターに載せた。男はどこか満足げに浅く頷いて、いつものように黒革の財布を胸ポケットから取り出した。
「36750円です。」
「すまなかったな。」
 男はまったくすまなそうに聞こえない調子でそう言って、夏侯惇にピン札を渡した。
 夏侯惇はほとんど叩きつけるようにレジの受け皿に一万円札を置くと、同じく叩きつけるように会計ボタンを押し、目にも留まらぬ速さでレジのドロアーから小銭と千円札を引きずり出すと、受け皿にざらざらと載せて、その客に付き返した。
「あっりがとうございましたァアッ!」
「・・・」
 すごむように夏侯惇が言うと、男は出し抜けにふと目を細め、手にしていた白バラの花束――――――夏侯惇が、実に力強く心を込めて作った白バラの花束の、大きい方――――――を夏侯惇の目の高さまで持ってきてこう言った。
「私はあなたにふさわしい。」
「・・・は?」
 夏侯惇が、世にも奇妙なものを見るような顔をすると、男はわずかだが確かに頬を緩ませて、続けた。
「尊敬という意味でもあるが。」
「・・・」
 それを聞いて呆然としている夏侯惇にその花束を手渡すと、男はさっと身を翻して去っていった。
 その後姿は颯爽として、手にした白バラの花束は実によく似合っていたが、夏侯惇がそれに気づくことはなかった。
 夏侯惇はただ、自分が作った白バラの花束を抱え、男の去っていった方向を眺めていた。眺めてはいたが、夏侯惇の頭の中にそこにある景色が入っていたかどうかはすこぶる怪しい。
 そんな風だったので、夏侯惇には、白バラの花束にいつのまにか小さな名刺が挟まっていたことに、気づく余裕ももちろんなかった。



 薄暗い店内には重厚な雰囲気が漂い、耳を撫でるような静かな音楽が流れている。腰には高級なソファの感触があり、目の前の大理石でできたテーブルは美しく磨き上げられ、上に乗せられた汗をかいたグラスをはっきりと映し出している。
 どうにもこういう場所には慣れない。この空間の中、自分がいることに違和感を覚えながら、夏侯惇は3杯目のウーロン茶が入ったグラスを傾けて唇を濡らした。
 普段飲み食いするならば、もっと手軽な、ジーパンとTシャツでふらっと入れるような居酒屋を使っている夏侯惇だ。だが、こんな高級なバーではさすがの夏侯惇でもTシャツで来る勇気はなく、以前仕立ててもらった―――無理やり仕立てさせられたと言うべきか―――グレーのスーツに初めて袖を通すことになった。
 そういう身なりをしていれば、上背もあり面構えもそれらしい夏侯惇は、この場に立派に溶け込んでいるのだが、当の本人はどうも居心地の悪さを拭えないでいる。彼がこうして、居たくもない場所に留まっているのにはもちろん訳があった。
 しかし、もう1時間も前からこうしているが、夏侯惇の後に入ってくる客の姿は見られない。慣れないスーツにそろそろ肩が凝ってきたところだ。
 まさか貸し切りにしているわけではないだろうな、と一抹の不安が過ぎるが、今夏侯惇が待っている人物のことを考えると、あながち杞憂と言い切ることもできない。
 そのとき、鐘の音が店の空気を震わせた。噂をすれば影、入り口に立っているのは、夏侯惇の待ち人だった。
「待たせたな。」
「かまわんさ。」
 まっすぐ夏侯惇の方へ歩み寄ってきたのは、曹操という男だった。その鋭い眼光は、薄闇の中でも彼だとはっきりわかる。
 曹操が夏侯惇の前に腰を下ろすと、間を置かず店員がやってきて、かち割り氷の入ったバーボンをテーブルに置いた。どうやら、曹操が来たらこれ、というのが決まりらしい。
 さすがだな、と妙に感心して、夏侯惇は喉も渇いていないのにまたウーロン茶を口につけた。
「そろそろこっちへ上がってくる気はないのか、元譲。」
「孟徳、その話は・・・」
 挨拶も世間話もなしに、唐突に本題に入るのが曹操の話し方のくせだ。夏侯惇も慣れたもので、慌てることはない。呼び出されたときから、この話題が出るだろうと予想もしていた。

 曹操と夏侯惇は親戚同士でもあり、幼友達だった。そして曹操は、今やこの国で一、二を争う大手運送会社「中原運送」を一代で叩き上げた社長である。
 会社の創業当初から曹操の下で忠実に働いてきた夏侯惇だったが、今は、一部門である花屋の一店舗を任されていた。
 しかし曹操は、夏侯惇をことあるごとに自分の傍に来るように誘いをかけた。そのための地位も用意していると言う。幼いころから共にやって来た夏侯惇を、一店舗の店長にしておくのが気に食わないのだろう。
 夏侯惇はずっとそれを固辞しつづけていた。曹操の用意している地位に就けるほどの働きを、自分がしてきたとも思えないし、親類だからという理由で地位に就きたくはない。むしろ他人よりも数倍の働きをしなければ、おそらく夏侯惇だけでなく、夏侯惇に地位を与えた曹操にまで、非難の声が及ぶことになるだろう。
 曹操が徹底した合理主義者であることを考えれば、彼が親類という理由だけで夏侯惇を傍に置きたがっているのではないことは、すぐにもわかりそうなものだが、夏侯惇はまだそこまで察することができずにいる。それは、花屋の一店長という居心地の良さも手伝っていた。

 夏侯惇の困惑した返事を、曹操は鼻で笑った。
「まぁよい。今は時期ではないかもしれんでな。」
「?」
 すべてを見透かしたような曹操の静かな笑みに、夏侯惇はますます困惑を隠せなくなる。この顔に、夏侯惇はいつも出し抜かれているような気になるのだ。
「おもしろい男が手に入りそうなのだ。」
 始まったときと同じように、曹操は唐突に話題を変えた。
「ほう、どんな。」
 夏侯惇の表情から影が消えたのを見て取り、曹操はバーボンに手を伸ばしながら続けた。
「赤兎運輸を知っておるだろ。」
「赤兎運輸・・・」
 夏侯惇は眉根を寄せた。
 どこかで聞いた名前だった。それもつい最近。しかも、それはあまり思い出したくない記憶のような気がした。
「お前は新聞を読まんからな。知らんかもしれん。」
 夏侯惇をからかうように言いながら、曹操はちらりとバーのカウンターの方を見た。店員が音もなくやってきて、今日の新聞を曹操に手渡す。
「一面に出ておるだろ、赤兎運輸の社長が自殺したと。」
「・・・はー・・・ふーん。ほー・・・そんなことがあったのか。」
「・・・あったのだ。」
 新聞の一面に顔を埋め、気の抜けた返事をする夏侯惇に、曹操は苦笑を隠せないようだ。グラスにつけた口元がおかしそうに曲がっていた。夏侯惇には、見えなかったが。
「だが、どうだろうな。自殺となってはいるが・・・聞くところによると、殺されたかもしれん。」
「何、誰に。」
 グラスを置いた曹操が意味深な笑みを浮かべるので、夏侯惇もつい顔を突き合せる。店員も店の主人も離れたカウンターにいて、二人の他に客は一人もいないのだが。
「社長が自殺した後、赤兎運輸を継いだ義理の息子が真犯人、らしいぞ。」
「・・・ドラマか映画みたいな話だな。」
 夏侯惇がそう言うと、曹操はソファに深く背をもたれて、手にした新聞を読むともなしに眺めた。
「赤兎はな、もともとヤクザ上がりの会社なのだ。こういうことがあっても不思議はないかもしれん。死んだ社長は女を大勢囲っておったし、義理の息子との仲も、そのことであまり良くないと噂だった。」
「ずいぶんとくわしいな。」
 夏侯惇が感心していると、曹操は新聞からちらりと視線だけ上げて、窺うような目で夏侯惇を見やって言った。
「この業界も長いからな。」
「なるほど。」
「しかし・・・」
 再び新聞に視線を戻した曹操の横顔に、どこか影が落ちたような気がして、夏侯惇は店の照明が暗くなったのかと思った。そうしている曹操の声の調子は、それまでと幾分も変わらないものだったからだ。
「儂も他人事ではないかもしれん。」
「・・・孟徳、馬鹿を言うな。お前をそんなのと一緒にするな。」
 曹操の言葉に、はじかれたように顔を上げた夏侯惇は思わず声を強めた。
「俺はずっとお前の傍でやってきたからわかる。お前は、世間に恥じるようなことは、一度もやってこなかったろう!」
「お前がわかっていたとしても、世間はそうは思わん。世間にとっては、中原も赤兎もそう変わらんのだ。」
「・・・っ!」
 曹操が視線も上げず、静かな声でそう答えると、夏侯惇にはもう何も言えなくなってしまう。いつも、曹操の言うことは正しいのだ。
「それに、お前が知らぬだけで、儂も汚いことをやっているかもしれんぞ。」
「孟徳!」
 たまらず声を荒げた夏侯惇に、曹操は新聞からようやく顔を上げた。
「女遊びとかな。」
「・・・・・」
 してやったりとでも言いたげなその顔に、夏侯惇は二の句が継げなかった。呆然としている夏侯惇を尻目に、曹操はバーボンを空にする。すぐにやってきた店員が2杯目をテーブルに置き、空のグラスを音もなく持ち去っていった。
「それよりもだ。」
「?」
 突然、それまで広げていた新聞を無造作にたたむと、曹操は少し身を乗り出して、薄く笑った。こんな顔をするときは、何か曹操にとっておもしろいことがあるときだと、夏侯惇は知っている。
「その赤兎から、男を一人引き抜くことにした。」
「なっ・・・そんな会社からか?!」
 今まで散々赤兎運輸の悪評を聞かせてきたにもかかわらず、曹操がうれしそうに言うので、夏侯惇はまた声を上げてしまう。その様子を見て、曹操はますますおかしそうに笑みを浮かべた。
「ヤクザ上がりなだけで、今はヤクザではない。しかし赤兎の2代目は、運送技術はなかなかだが経営手腕は問題にならん。社長から奪った女にかまけておるしな。実質、今の赤兎を動かしているのはその下についておる奴らだ。その中に、おもしろい男がおるのでな。」
「なっそっそれにしたって・・・そんな、ヤクザ上がりの・・・っ」
 真面目に働いてきた夏侯惇にとって、「ヤクザ」という言葉はほとんどタブーのようなものだった。聞くだけで身構えてしまう。
 それがまたおかしいらしく、曹操は今や完全に夏侯惇をからかって楽しんでいるようだ。
「お前に株価の話などしても無駄だろうが・・・とにかく赤兎はもう長くない。その前に必要なものは取っておかねばな。」
「・・・・・」
 唇の端を上げて笑う曹操に、もはや何を言っても無駄なことを、夏侯惇ほど知っている人物は他にいない。
 夏侯惇はただ愕然として笑う曹操の顔を見るしかなった。そんな彼に、赤兎運輸の名前が載った新聞記事の写真の端に写っている、よく見知ったあの個性的な髭に気づく余裕はまったくないのだった。



 昨日の夜は結局、曹操のヘッドハンティングに最後までしつこく反対した夏侯惇だったが、落ち着けと曹操に宥められて勧められたのが、バーボンだと気づく余裕さえないほど切羽詰っていた。
 何故ならあの後、曹操が新聞記事の写真を見て「この男だ。」と指し示したのが、夏侯惇に白薔薇のブーケを押し付けるに留まらず、そのブーケに自分の名刺を挟んでおくなどという、吐きそうになるほどキザったらしい真似をして去って行った、夏侯惇が今世界で一番嫌いな男だったからだ。
 酒に慣れない身体に流しこまれたバーボンのおかげで、夏侯惇は一晩立っても顔色は真っ青、フラフラしたまま、店のカウンターにいた。もう昼近くだ。
「くそっ孟徳の奴・・・っ!何でよりによってあの!男なんだ!・・・う、ぐ、えぇっ・・・!」
「ちょっと惇兄・・・もう今日帰って寝てなよほんと・・・死んじゃうんじゃないの、そろそろ。」
 声を荒げた拍子に、今朝無理やり詰め込んだ朝食のクロワッサンとコーヒーを戻しそうになり、夏侯惇は店の外からは見えないカウンターの陰で激しくえづいた。何とか堪えたものの、さすがにそれを見かねた夏侯淵が、呆れ顔でカウンターの向こうから覗き込んでいる。
「こんなことで死んでたまるか。くそ・・・孟徳め・・・」
「・・・・・」
 夏侯惇にしてみれば、曹操が無理を承知の上でバーボンを飲ませたことよりも、あの男を引き抜くことの方が許せないことらしい。たとえ曹操の飲ませたバーボンのせいで、自分が今死にかけていて、曹操がその男を引き抜くことで、何ら自分に被害が及ばないとしても。
 夏侯淵は思い込んだらわき目も振らないこの兄に、呆れを通り越して、多少の哀れみさえ感じ始めていた。
「それにしてはさー、惇兄。あの薔薇、ちゃんと飾ってるじゃん。そんなに嫌なら捨てればいいのに。」
 あの薔薇、というのは、件の男が夏侯惇に寄越した白薔薇のブーケのことだ。夏侯惇はそれを律儀にも自宅に持ち帰り、大輪の白薔薇にふさわしい立派な花瓶に生けて飾っていた。
 夏侯淵は夏侯惇と同居していたので、もちろんそれを知っている。夏侯淵がそう言うと、夏侯惇は今にも人を殺しそうな目で夏侯淵を睨みつけた。
「たとえ親の仇が寄越そうと花に罪はないだろうが・・・捨てるに捨てられんのだ・・・特にあれは俺が作ったんだ・・・捨てられるわけがないだろう・・・くそっ腹の立つ・・・」
「と、惇兄・・・」
 息も絶え絶えの夏侯惇がそう答えると、夏侯淵は人を射殺しそうなその視線に心臓を高鳴らせながらも、この人は花屋になるべくしてなったのだと、苦笑を禁じえないのだった。



 花屋にしては、多少強面かもしれないという自覚はある。
 しかしそれ以上に、夏侯惇はこの仕事が天職だと思っているのだ。
「毎度ありがとうございます。」
 日曜日の午後、赤いチューリップの花束を買っていった客を見送り、夏侯惇は頭を下げた。
 花に囲まれたこの仕事に満足している今、他のことは一切気にならない。が、ここ最近はそうも言っていられなくなってしまった。
 それまで穏やかに細められていた夏侯惇の視線は、見る間に険しく剣呑になり、カウンターの奥のコルクボードに注がれる。
 そこには、小さな真っ白の紙が一枚、留められていた。
 それは画鋲で留められているだけだったが、その留め方が、紙の隅でなく、ど真ん中に深々と画鋲が突き立てられているために、まるで磔の刑のようになっている。

 夏侯淵に、何故例の男から贈られた白薔薇を処分しないのかと聞かれたが、名刺も処分していないのには、薔薇とはまた違った理由があった。
 次に顔を合わせたとき、あのすかした面に、拳ごと名刺を突き返してやるつもりでいるのだ。
 件の男が夏侯惇にしたことといえば、白薔薇のブーケと名刺を渡し、一言二言言葉を交わしただけである。それも、先に吹っかけたのは夏侯惇の方だったし、男の言葉はくだらない冗談で片付けられる一言だ。
 しかし、とにかく夏侯惇としては、拳の一発や二発、あの男に食らわせないことには腹の虫が治まらない。あの男の一挙手一投足が何故か異様に気に食わないのだ。
 一刻も早くこの拳を・・・いや、名刺を突き返して――――
 夏侯惇はコルクボードから名刺を毟り取った。
 夏侯惇自身にも、何故こんなにもあの男の存在が癇に障るのか、皆目わからない。ただ何もかもが夏侯惇を苛立たせた。
 あの洗練された立ち居振る舞い、初めて聴いたそのときから耳に貼りついたように離れない抑揚の欠片もない声、そこに映るものすべてが彼にとって何の価値もないかのような目が、わけもなく腹立たしい。
 思い出しただけで、頭に血が上ったのがわかって、夏侯惇は首を振った。眉間にしわを寄せて大きなため息をつく。
 チューリップの花束を買っていった客以来、店に誰も入ってこなかったのは、今の夏侯惇にとっては幸いだった。接客をするには、今の夏侯惇はあまりにも表情が険しすぎて、客の目には単なる恐喝としか映らないだろう。
「あれ。惇兄、何してんの。」
 奥の倉庫からやってきた夏侯淵が、夏侯惇の肩越しに、その手元を覗き込んだ。
 ふと、夏侯淵の視線が夏侯惇の持つ小さな紙片に止まる。間近にある夏侯淵の横顔の中、その目が意外そうに見開かれたのを見て、夏侯惇もまた目をしばたかせる。
「何これ・・・赤兎運輸の名刺なんか、何でこんなとこにあんの?」
 そう言った夏侯淵の声は、どこか間抜けて聞こえた。どうやら、この名刺に書かれている社名が原因らしい。
「・・・何かな。掴まされた。」
「あ。」
「何だ?」
 唐突に、夏侯淵が間の抜けた声を出すので、夏侯惇は怪訝な顔をする。
「わかったぜ、惇兄。そりゃあの、一週間くらい前までよく来てたあの客にもらったんだろ。」
「・・・」
 夏侯淵は、得意げに笑ってそう答えた。まさしくそのとおりであったので、夏侯惇は何も言えず、そっぽをむくしかない。
「はー、あのお客、赤兎運輸の奴なんだなぁ。あんまりそうは見えねぇけど。」
「どういう意味だ?」
 夏侯惇がそっぽを向きつつ、気になって問うと、夏侯淵は目をしばたかせて、夏侯惇の顔を見る。
「惇兄、まさか知らねぇわけじゃねぇだろ?赤兎っつったら、やくざとか、何かそういう奴らとつながってるとか、とにかく悪い話ばっかり聞くとこだぜ。新聞にも載ってるし。」
「・・・」
 夏侯惇はまたしても押し黙る。夏侯惇もその噂はもちろん知っている。とはいえ、知ったのはついこの間、曹操に教えられてようやく、だったが。
「まー別に、赤兎の奴に花売ったからっつって、逮捕されるってわけでもねぇんだけどさ・・・」
 夏侯淵は、誰に言うともなしにぼやいて、カラカラと笑いながら店の外へ出て行った。

 夏侯惇は、夏侯淵の言葉がふと気になった。最後にあの男が来てから、もう一週間すぎている。
 一週間前といえば、夏侯惇が曹操と会って話したあの日がちょうどそうじゃないか、と思い至って、夏侯惇は眉根を寄せた。
 手元の紙の欠片には、金色の画鋲の陰に、馬の頭をかたどった赤いシルエットが、同じく赤い文字と並べて描かれていた。鋭い字体は、真っ赤な馬が白い空間を切って駆け抜けているように見えるロゴだ。「赤兎運輸」。
「赤兎運輸・・・」
 あの夜、曹操に渡された新聞で読んだとき、感じた既視感はこれだったのだ。
 名刺に気づいてすぐ、八つ裂きにして破り捨てたいという願望を何とか押し留め、コルクボードに叩きつけるかのように画鋲をど真ん中に突き立ててしまったので、その陰になって今まで、ろくに社名さえ見ていなかったから、すぐには気づかなかった。
 しかしあれから、夏侯惇は新聞に目を通すようになり、そしてその一面で、「赤兎運輸」の文字が躍っているのをよく見るようになった。
 夏侯惇は、ぶっつりと紙を貫いたままだった画鋲を抜くと、名刺を裏返した。
 そこには、黒い小さな文字が規則正しく並んでいた。先ほどのロゴとは違い、面白みのない生真面目な字体で、赤兎運輸とその連絡先などが細かく書かれている。少し空間を開けた真ん中には名前があった。
 社名さえろくに見ていなかった夏侯惇は、今初めてその名前を目にしたことになる。
「・・・張遼。」
 ふぅん、と思った。夏侯惇には、今こうして名刺を見るまで、あの男に名前があるようには思えなかったのだ。あの男も人の子だったのか、とあまりと言えばあまりなことをひとりごちた。
 しかし、あの男にはどこかまとっている空気が普通の人間とは違うような、一種異様な雰囲気があるのも事実だった。どうも世離れしているというか、生活臭が感じられないというか、とにかく得体がしれないのである。いや、たった今、男の名前も属する会社も知れたのだったが、そういう「得体」とはまた別に、夏侯惇にとってあの「張遼」は、何ともつかみどころのない存在なのである。
 しかしもはやその「張遼」ともそろそろ、この磔の名刺とともにおさらばしてもいい頃だ。いつまでも一常連客(とは言っても、夏侯惇としてはもはや変質者という認識に近かったが。)にかかずらってはいられない程度には店は忙しく、また夏侯惇もできうるかぎり、早めにおさらばしたかったのである。
 だから、ほとんどへし折るようにして持っていたその名刺を夏侯惇がくずかごの上で手放したことは、何ら不自然なことではなかった。


 夏侯惇と夏侯淵、二人のやりとりがあってからしばらくして、カウンターにいたのは夏侯惇の方だった。
 夏侯淵は昼休憩で、二人分の昼食を買いに出て行った。昼ごはんにしては少し遅い時間だったが、二人にとっては日常茶飯事である。
 カウンターの中の夏侯惇は、アレンジ用の細いリボンを結んで、簡単な飾りの作り置きをしている途中だった。
 こういう細かい作業は、夏侯惇はあまり得意ではないので、いつも夏侯淵がやっておいてくれている。しかし自分以外にいないとなれば、やっておかなければならない。
 案の定、できあがったリボンはあまり褒められた出来ではないのだが、これでも慣れてきた方である。このことで客に文句を言われたことは、今のところない。だから夏侯惇は、とりあえず問題はないだろうと思うことにしている。
 そうこうしているうち、店の擦りガラスの窓越しに、人影が視界の端に入った。赤いリボンを結ぶ手を止め、夏侯惇はその客の様子を伺う。
 何となくだが、どこかで見たことがある客のような気がする。そして、その顔の見えない人影に、何とも言えない不穏な空気を感じた。

 人影は長身で、おそらく夏侯惇と同じくらいの背丈の男だろうと思われた。
 店の入り口に並べられた花を、見るともともなしに眺めているようだ。ゆっくりとした足取りでガラスの向こうを歩き、ふと立ち止まってしゃがみこむ。
 あぁ。どうか通り過ぎてくれ。頼むから。できれば、顔も見たくない。俺に見える範囲に、顔を出すのもやめてくれ。
 夏侯惇は、赤いリボンの束を握り締めて一心に祈った。夏侯惇は必死だった。
 もはや確信めいた予感が、夏侯惇の胸をさざめかせている。
 しゃがんでいた人影が再び立ち上がった。擦りガラスの端にぼやけていた人影が移動する。

 夏侯惇が、終わりだ、と思ったのと、店の入り口に男が姿を見せたのは、ほぼ同時だった。
「いらっしゃいませ。」
 夏侯惇は努めて冷静に、むしろ無表情に無感情にそう口にした。もはや、突然白薔薇の花束を寄越したことに文句をつけることも、名刺を突き返すことも忘れていた。
 姿を見なかったこの一週間、頭のどこかで、あの男はもう来ないのかもしれない、いや、二度と来ないに違いないと、思い込んでいた節が、夏侯惇にはあった。もしくは、そう思い込みたかった。
 だってつい先ほども、この男が働いているらしい赤兎運輸が今どんな状況にあるか、話していたところだったのだ。たとえ一介の社員だろうと、ただで済むような状況だとは到底思えない。だから、自分の記憶の中から消え失せるまで、少なくともそれ位の間は来ないだろう、と思っていた。
 この驚きはほとんど恐怖に近い。
 無言で、小さな鉢植えを片手に入り口にたたずんでいるのは、やはりあの男。「張遼」だ。
 今までのような、ビジネスライクなスーツではない。細身のジーンズに、オーソドックスだが一目で上等とわかる黒のジャケットという出で立ちで、夏侯惇は服のブランドなどにはまったく明るくないのだが、そういう夏侯惇にさえ彼の着ているものがブランドものであるとわかった。それがまた彼の長身に、嫌味なほど似合っているのが忌々しい。
 髪型も、きっちりと後ろに撫で付けた常とは違って、短い毛が跳ね回っている。しかしあのふざけたような髭は一週間ぶりでも相変わらずで、あれでは人違いをしたくてもできない。
 夏侯惇の凍りついた固い表情に気づいているのかいないのか、張遼は何の戸惑いもなく店内に足を踏み入れた。そして、店内に飾られた色とりどりの花には目もくれず、夏侯惇のいるカウンターへまっすぐに近づいてきた。
 そのときの夏侯惇の恐怖と言ったら、目の前で死んだ者が再び動き出して己に襲い掛かってきたかのようなものであった。もはやこの男に関しては、赤兎がどうとか、やくざがどうとか、そういう類の話ではない。夏侯惇は得体の知れないこの男を目の前にして、憎むどころか恐怖すら感じていた。
「すまない。」
「―――っ」
 息が止まった。もちろん、夏侯惇の。
 応答どころか、思考さえまともにできない。何と言って返事をしたらいいのか、わからないし、考えられない。目の前にこの男が立った、というただそのことだけで気圧された感じがする。張遼は別に、夏侯惇を威嚇したわけでも何でもなかったが。
 張遼は夏侯惇の目を直視している。夏侯惇はたまらず目をそらしたくなるが、顔を背けるにも不自然な気がして、結局視線だけがあらぬところへ飛んでいく。
「カサブランカ・・・は、あるだろうか?」
「・・・か・・・?」
 張遼が何を言っているのか、一瞬わからずに、夏侯惇は裏返ったような声でつぶやいた。張遼が軽くうなずく。
「花束をお願いしたいのだが。」
「は・・・花束・・・」
 ようやく我に返ったのか、夏侯惇はもう一度聞きなおしてやっと張遼の言ったことが理解できた。
「か・・・かしこまりました・・・」
 夏侯惇は必死に平静を装い、入り口のあたりに飾られたカサブランカを取りに、カウンターを出た。一瞬、張遼との間の距離がぐっと縮まり、異様なほど落ち着かなくなる。
 しかしそれも、花束を作り始めるまでのことであった。夏侯惇は、半ば強引に、神経を花束に集中させて、目の前の男の存在を意識の外へ追いやることに成功した。
 張遼は、夏侯惇のことなど気にもかけていないようにも見えたし、花束を作る夏侯惇の手を、一瞬でも見逃さないように注視しているようにも見えた。もしくは、そのどちらも正しいかもしれないし、夏侯惇の考えすぎかもしれない。
 ただ張遼は、カウンターの前にたたずみ、静かに花束ができるのを待っていた。それだけだった。
「これでよろしいでしょうか。」
 できるだけ淡々と、夏侯惇は花束を差し出す。張遼は軽くうなずいて、ポケットから財布を取り出す。
 代金を払い終えると、花束と鉢植えを受け取った張遼はさっさと身を翻してカウンターから離れていった。夏侯惇は、知らず肩から力が抜けていくのを感じる。
 張遼が店を出るのと時を同じくして、ちょうど夏侯淵が帰ってきた。
 夏侯淵は、張遼の姿を見るなり、目を丸くして立ち止まり、彼が店を後にする後姿を呆然と見送っていた。
「惇兄!」
 その姿も見えなくなると、夏侯淵は我に返ったように、どたばたとカウンターへ走り寄ってくる。その顔は困惑しきって、夏侯惇を傷物のように見つめている。
「その・・・大丈夫?」
 まるで強盗にでもあったかのように心配する夏侯淵に、夏侯惇は苦笑いする。
「あぁ。別に何ともない。ただ花を売っただけだ。」
「そっか・・・よかった。」
 夏侯惇の様子が、意外なほど穏やかなのを見て取り、夏侯淵は安心したようだ。その肩からふっと力が抜けていくのが、夏侯惇から見てもはっきりわかった。
「しばらく来てなかったのにな。」
「あぁ、もう来ないと思ってたんだが・・・」
 来てほしくもなかったし、と夏侯惇はため息をつく。夏侯淵がいてくれるおかげで、先ほどの息が詰まるような緊張は解けたが、やはりあの男の不気味さは今でも薄ら寒い。
「それに今日は白バラじゃなかったじゃん。」
「!・・・そういやそうだな。」
 そういえば、と夏侯淵に言われて改めて気づく。応対している最中は、あまりの混乱にそれどころではなかったのだ。
 鉢植えは何の花だったろう。花束を作ることだけに集中していたので、それも覚えていない。
 そもそも、今日は日曜日だ。いつもなら平日の、しかも閉店間際に駆け込んでくるあの男の姿を、まさか日曜日の真昼間から見ることになろうとは思っていなかった。
「まぁそうそう白いバラばっかいらねぇよなぁ、たまにゃ違う花も欲しいよな。」
 夏侯淵が明るい声で言う。以前が異常だったのだと考えれば、まったくもって夏侯淵の言うとおりだ。
「店の前のに水、やってくる。」
「あ、うん。」
 夏侯惇はそれ以上、張遼のことを考えて煩わされるのも何だか癪で、思考を止めてカウンターを出る。突然話を止めた夏侯惇に目をしばたかせながら、夏侯淵もそれについては別段話し続けることもないようで、何も言わなかった。



「そもそもあいつは俺を呼びつけるくせに、俺の言うことなんざ一っ言もなぁっ!そうだろう、なぁ淵!」
 店に入って一時間、ようやく一杯目のチューハイのグラスをカウンターに空けた夏侯惇は、完全に据わった目でぶつぶつとつぶやく。
「そうだね、惇兄。」
 夏侯淵からしてみれば、酒とは名ばかりのジュースのようなそのチューハイで、どう酔うのかが不思議で仕方がない。夏侯淵はとことん酒に弱い兄に、半分呆れたような返事をする。
「俺が慌てて反対するのを見て楽しみたいだけなんだ、あいつは・・・いつもそうだろう、なぁ。」
「そうだね、惇兄。」
 酔ったところで、普段と言うことは大して変わらない。しかし夏侯淵は、この兄が口で何と言おうと、結局は話題の人物に心酔しきっていることを知っていたから、そういうところを少し可愛いとさえ思う。このしなだれかかるような絡み癖がなければ。
「淵・・・お前ちゃんと俺の言うこと聞いてるか・・・?」
 ゆらゆらと頭を揺らして首を回し、夏侯惇は夏侯淵を睨む。弟が適当な返事しかしていないことくらいは、まだ判別できるらしい。
「聞いてる、聞いてるよ、惇兄。飲みすぎってはっきりわかるくらい聞いてるよ。」
 この人はもう半分寝てんじゃないか、と夏侯淵はひそかにそう思いながら、カウンターにへばりついて顔だけこちらに向けている夏侯惇にうなずいてみせる。
「・・・そんなこと言ってんじゃないんだ、俺は・・・そうじゃない・・・わかるだろう?」
 未だ言い募る夏侯惇に、夏侯淵はため息を隠しきれない。このまま放っておくと、「わがまま」だの「勝手」だのと、ひとしきりその人物をなじった挙句、結局「俺はあいつの元で働けて幸せだ。」とか「あいつほどの男は他にいない。」とか、聞いているこちらが恥ずかしくなるようなことをうわ言のように言い出し、口の中でもごもご何か言い、最後には、カウンターにへばりついたまま、寝る。
「惇兄。」
 店の主人も、他の客に出す酒を探しているふりをして苦笑しているのが夏侯淵にはわかる。回数はそう多くないが、この光景を見るのは一度や二度ではないだろうから、いつも同じ顛末を見るのは確かに愉快に違いない。
 しかし夏侯淵は笑ってばかりもいられない。何せ夏侯惇が寝てしまうと、彼を担いで家に戻るのは夏侯淵しかいない。べろべろに酔っ払って力の抜けた夏侯惇を担ぐのは、本当に骨の折れる仕事なのだ。いかな夏侯淵と言えど、御免被りたいところである。
「なぁ惇兄、もう帰ろ、な。」
「駄目だ、まだ飲む。次は梅酒がいいな、梅酒を頼む。熱い方のやつ。」
「惇兄ぃい・・・」
 夏侯淵が席を立ちかけると、夏侯惇は子供のようにますますカウンターにしがみつき、もう一杯頼もうとする。夏侯淵はほとんど泣きそうになるが、そんな様子などお構いなしに夏侯惇は何がおかしいのかへらへらしている。
 カウンターに差し出された梅酒を受け取り、夏侯惇が啜るように飲んだ瞬間、どうやら運命は決したようだ。諦めて、夏侯淵はまた席に座る。
「・・・あいつを入れるんだと・・・何がいいんだろうな・・・俺には・・・」
 湯気で曇ったグラスを置いた夏侯惇は、唐突に真剣な表情を浮かべてそうつぶやいた。
「え?」
 しかしその声が小さく、聞き取れなかった夏侯淵が聞き直すと、夏侯惇はグラスの底に残っていた梅酒をぐいと飲み干して、押し黙る。
「何?」
「いや、俺は・・・はじめに決めたんだ・・・俺は・・・何、が・・・あろ・・・う、と・・・・・・」
「あ、あぁあ・・・寝ないでよちょっと、冗談だろ、惇兄ぃい・・・」
 途中から、どうも呂律が怪しくなったと思ったときにはもう遅かった。夏侯淵のすがるような懇願の声はもはや夏侯惇には聞こえなかった。